明治伊万里のネーミングに拘る訳は・・・。

明治伊万里の成長と云うか進化は、海外市場での優位性を求めていかに輸出振興に寄与するか時代の要請でもあった。明治新政府は殖産興業を推進して国内産業の近代化を推し進めると同時に外貨獲得のために輸出振興策を図った。 17世紀の古伊万里や柿右衛門様式がオランダ連合東インド会社による輸出によってその知名度は欧州を席巻していて、幕末にパリで開催された万国博覧会でも有田焼は伊万里のネーミングで好評を博した。 市場が海外であり続けたことが図案の改良にもつながり、万国博覧会が国威の発揚であり、外貨の獲得のために技術の向上と精神の昂揚が巨器制作や精巧精緻な細工や絵付けに現出されたのである。 磁器の素材として有田の泉山産出の陶石を原料に、西洋の原料や技術の導入もすべては海外市場での成功を夢見たものであった。 有田という地名は存在したものの、陶磁器の産地表示としては市場には浸透していなかった。 明治30年に鉄道が開設され、伊万里港からの海上輸送から有田駅から貨車輸送に代わって有田焼のネーミングが広がり始めた。しかし、これはまだ国内市場向けであり、海外に輸出された明治期特有の様式美を有したものはやはり江戸期の延長線上にある伊万里であった。 また、陶磁器原料も明治30年代までは泉山の原料に拘泥していただけにそれらの背景を考慮すれば『明治伊万里』に多くの要素が含まれるのである。 したがって、筆者は今まで通りに、とりわけ輸出に供せられたものに関しては明治伊万里を適用したいと考える。IMG_2528色絵綱渡り人物文楕円皿 田代商会製 幕末~明治初期