深川忠次の大望!

香蘭社の八代、深川栄左衛門の次男に生まれた忠次は明治27年に香蘭社から分離独立して、

深川製磁を創設した。

草創期は独自性を打ち出すために大変苦労されたのが垣間見られる。

彼は明治26年のアメリカ、シカゴにおけるコロンビア博には有田代表として渡航している。

この博覧会では工芸の絵画性というものが日本には求められた、職人の技術と絵画の持つ生成の融合が図れた

のである。

この大鉢は表向きは職人的な伝統模様の踏襲であり、見込みは写実的な鯉図が描かれている。

時代の要請にも柔軟に応えていく深川忠次のものつくりの姿勢には大いに学ばされるものが多い。

西洋の様式であるアールヌーボーやアールデコとの融合も見事に成功させ傑作が生みだされていった。

有田町の町長にも就任し、公共の為にも尽くした。

この大鉢の蜀江紋様は、明治33年、パリ万博に大花瓶一対を出品して金賞を受賞したが、その意匠に類似性が

見受けられる。


花伝塾

 

あっという間に夏から秋へ

日本には自然が織りなす四季があります。

自然界は本当にびっくりする位

移ろう四季を美しく確実に映し出しますね。

 

8月はセミナーもすべて休講しましたが、

今月から又再開です。

皆様にお逢いできることを楽しみにしています。

今月は重陽の節句についての講義も入ります。

 

家庭画報の通販カタログに私共が企画制作した生前骨壺が掲載されました。

家庭画報ではこれで三回目ですが、お陰様で実績を重ねています。 骨壺の選択は既存の業者のカタログから遺族にゆだねられていることが一般的でしたが、徐々に生前から準備される方が増えてまいりました。 生前は衣食住にそれなりのこだわりや美意識をお持ちになられている方々が何故、終の棲家である骨壺に関心が寄せられないか不思議でなりませんでした。 しかし、当方が生前骨壺をメディアに発表してからは、有田の各お店でも販売コーナーに骨壺が陳列さるようになりました。IMG_3494 IMG_3496  

明治伊万里のネーミングに拘る訳は・・・。

明治伊万里の成長と云うか進化は、海外市場での優位性を求めていかに輸出振興に寄与するか時代の要請でもあった。明治新政府は殖産興業を推進して国内産業の近代化を推し進めると同時に外貨獲得のために輸出振興策を図った。 17世紀の古伊万里や柿右衛門様式がオランダ連合東インド会社による輸出によってその知名度は欧州を席巻していて、幕末にパリで開催された万国博覧会でも有田焼は伊万里のネーミングで好評を博した。 市場が海外であり続けたことが図案の改良にもつながり、万国博覧会が国威の発揚であり、外貨の獲得のために技術の向上と精神の昂揚が巨器制作や精巧精緻な細工や絵付けに現出されたのである。 磁器の素材として有田の泉山産出の陶石を原料に、西洋の原料や技術の導入もすべては海外市場での成功を夢見たものであった。 有田という地名は存在したものの、陶磁器の産地表示としては市場には浸透していなかった。 明治30年に鉄道が開設され、伊万里港からの海上輸送から有田駅から貨車輸送に代わって有田焼のネーミングが広がり始めた。しかし、これはまだ国内市場向けであり、海外に輸出された明治期特有の様式美を有したものはやはり江戸期の延長線上にある伊万里であった。 また、陶磁器原料も明治30年代までは泉山の原料に拘泥していただけにそれらの背景を考慮すれば『明治伊万里』に多くの要素が含まれるのである。 したがって、筆者は今まで通りに、とりわけ輸出に供せられたものに関しては明治伊万里を適用したいと考える。IMG_2528色絵綱渡り人物文楕円皿 田代商会製 幕末~明治初期

黒島教会

黒島教会    〜時代をこえて〜 今朝の大雨警報で心配したが 絶対に晴れる‼️という念を入れて^_^ 車で佐世保相浦港に向かいました。 港に着いたら どんより曇った空に青い空が見えてきています。   ウワー念力が通じたと嬉しくなり 静かなうみも     相浦港から黒島までフェリーに乗船❕ image image   image 家族で向かうのは 《黒島教会》です。 image 黒島教会の祭壇には 有田焼のタイルが敷き詰められているのですが、 当時 フランスからの三代目の マルマン神父様が明治35年に現教会を建設される時に 有田の《松尾徳助》に依頼され 祭壇に1600枚の有田焼タイルが敷き詰められたのが、今から120年程前です。 image image image 暑い夏に 紫陽花がまだ美しく彩っていました。 image ご多忙の若い神父様は 聖堂をお掃除されていたようで、 軽装ですみませんとのことでしたが 穏やかな神父様との語らいも、とても楽しく あっという間に 時間が過ぎていきます。     image   image 日本で最初に作られた有田焼タイル 《松尾徳助窯作》 image 特別に撮影の許可をいただいての聖堂内です 祭壇に敷き詰められた 明治初頭 日本で初めて作られた有田焼タイル は今でも一枚も破損することなく祭壇に輝いていました。   この制作者松尾徳助の母方の曾曾孫にあたるのが ギャラリー花伝庵主 蒲地孝典です。 実は数年前 前の神父様ご在籍の時 そのタイルを使った有田焼の復元を願っていることを伝え許可をいただいていたのですが、やっとその想いが叶えられそのご報告と オリジナルで製作した 《有田焼陶箱》を教会に置いていただくことと先祖である松尾徳助との親交があられた マルマン神父様のお墓参りが今回の目的でした。   image マルマン神父様はフランス生まれですが 黒島教会の神父様となられ、 この地で眠りたいとのことで 黒島聖家族の墓地に眠っていらっしゃるのです。 黒島は島民80%がクリスチャンですが、その墓地にはクロスが掲げられた お墓が 沢山 ありました。   imageimage 教会にいらした 針尾さんという信徒の女性がとても親切にご案内いただきましたが、 「マルマン神父様は 墓地の一番下段に眠られているんですよ」とのことで 墓地で 探したら、 墓地の中ではありますが、本当に隅っこの一番下段に眠っていらしたのです。 imageimage 島民から尊敬され 素晴らしい神父様は キリストに仕える身として 常にご謙虚でいらしたのでしょう。 信仰と祈りの西海の島 黒島にある 黒島教会は現在 世界遺産 九州教会群のひとつに ノミネートされています。 先祖が 利益も考えず マルマン神父様と島の人々の祈りの場である教会の 祭壇に敷くタイルを 日本で最初のタイル制作に挑んだことは マルマン神父様の情熱とお人柄に 心を動かしたのだろう。 と 夫の言葉に フランスと日本の男のロマンが 教会で固い絆となって 成就したことを感じながら、時代を越え 私達の娘そして2歳と産まれて4ケ月の孫と共に 感謝の祈りを捧げました。   imageimage     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー————————-

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ルーシーリー展

ルーシー.リー展 image 没後20年記念として 全国で開催されるルーシー.リー展 現在千葉で開催されています。 会期 2015年 7月7日(火)− 8月30日(日) 会場 千葉市美術館 〒260-8733 千葉市中央区中央3-10-8 TEL:043-221-2311 URL:http://www.ccma-net.jp 開館時間 日~木曜日 10:00~18:00 金・土曜日 10:00~20:00 ※入場受付は閉館の30分前まで http://www.ccmanet.jp ◼️ルーシーリー展   image image image image image image http://lucie-rie.exhn.jp/exhibition/ ルーシー・リー1902年3月16日 – 1995年4月1日) 20世紀後期のイギリスを拠点に活動しましたが オーストリアウィーン出身の陶芸家です。 大英帝国二等勲爵士 でもあります。 作風は イギリスを代表する陶芸家であり日本でも知られている バーナード・リーチと親交を持っています。 電気式陶芸窯から生み出されるその軽く薄い作風に対しては、 強い火と土窯から生まれる日本風の重厚なものに強く傾倒していたリーチから 手厳しい批評を得ることとなります。 以後、芸術面に経済面も加えて大変厳しい日々を送ります。 その苦悩の日々は「キャベツの日々」といわれキャベツばかり食べていたようです。 お金の無い日々の中 彼女のこだわった独自の方向性を大きくは変えることなく模索を続けるのです。 やがて、象嵌や掻き落しによる線描や釉薬、緻密な成分計量に基づく理論的工法などによる独特の繊細かつ優美な作風を確立しました。 リーチものちにこれを認め、推奨するまでになってきたのです。 三宅一生 :ルーシー・リーと親交があり、彼女の手になる陶器製ボタンを多数コレクションしている。 略歴 英国はロンドンの一角、アルビオン・ミューズにある旧宅に掲げられている、ルーシー・リーのブルー・プラーク 1902年 – ユダヤ系の医師の娘としてウィーンに生まれる。 1922〜1926年 – ウィーン工業美術学校でミヒャエル・ポヴォルニー (Michael Powolny) に陶芸を学ぶ。 1937年 – パリ万国博覧会で銀メダルを獲る。 1938年 – ナチスによるオーストリア併合後、イギリスに移住。 1939年 – ロンドンの一角にあるアルビオン・ミューズに移る。 1946年 – ハンス・コパー(en、1920- 1981年)が工房に参加。 1951年 – ロンドンのバークレー・ギャラリー (Berkeley Gallery) でハンス・コパーと共同展。 1960年 – キャンバーウェル・カレッジ・オブ・アーツで教鞭を執る(1972年まで)。 1964年 – 東京の国際陶芸展に参加。 1969年 – ロンドンの王立芸術学院より名誉博士号を授与される。 1972年 – ハンブルク美術工芸博物館(de)で『Lucie Rie – Hans Coper Keramik』展。 1981年 – CBEを受勲。 1989年 – 草月会館と大阪市立東洋陶磁美術館で個展。 1990年 – 脳梗塞で倒れ、以降、陶芸を続けることが不可能となる。 1991年 – 大英帝国二等勲爵士の称号を贈られる。 1994年 – メトロポリタン美術館でハンス・コパーとの共同展。 1995年 – 脳梗塞により、ロンドンにて93歳で他界。 *参考文献 東京国立近代美術館工芸課 今後の全国展

お盆について

image お盆 お盆の正式名称は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」というそうです。 「盂蘭盆」とは….. インドのサンスクリット語の「ウラバンナ」(逆さ吊り)、 ペルシャ語の「ウラヴァン」(霊魂) からきた言葉だといわれています。 お盆は名の通り 供物を盛る器を表しているという説もあります。 ーお盆の行事ー 仏教の開祖であるお釈迦様の弟子が地獄に落ちた母親を救うため、 7月15日に霊を供養した、というのがそもそもの起源です。 お釈迦様の弟子のひとり、目連尊者(もくれんそんじゃ)は 亡き母が地獄に堕ち 逆さ吊りにされて苦しんでいると知りました。 どうしたら母親を救えるか、お釈迦様に相談しました。 ーお釈迦様の言葉ー 「夏の修行が終わった7月15日に僧侶を招き、多くの供物をささげて供養すれば母を救うことができるであろう」 目連尊者がその教えの通りに実践。 その功徳によって母親は極楽往生が遂げられたのです。 そのことから 精霊を供養する盂蘭盆会の行事が生まれたそうです。 この盂蘭盆会の行事が日本の祖霊信仰と融合し、 日本独自のお盆の風習となったようですね。 ◼️日本で最初にお盆を行ったのは誰❓ 推古天皇です。 今から1400年も前の飛鳥時代です。 長い間、貴族や僧侶だけが行う特別な行事でしたが、 江戸時代に入ると、ろうそくや提灯が大量生産されたこともあって、 一般の人にも定着したそうですよ ◼️お盆の期間 一般的なお盆の期間は、8月13日から16日までですが 地方によって違いがあり、東京や函館 九州の一部などでは7月に、沖縄などでは旧暦の7月15日に行われています。 7日:7日盆 墓を磨いたり、掃除したりします。 12日:草の市 飾り物やお供え物を売る市です。花やろうそくなどを買います。 13日:迎え盆、(お盆の入り) 盆棚をしつらえます。墓参りに行き、その帰りに玄関で「迎え火」を焚いて祖先の霊を迎えます。 15日:藪入り 外に出ていた家族が帰省。ゆったり過ごし、親戚の盆棚にお参りにいきましょう。 16日:精霊送り(送り盆、お盆の明け) ちょうちんや盆棚を片づけ、送り火を焚きます。 「盆と正月」が一緒にきた‼️という言葉がありますね。 日本人にとってお盆はお正月と同様にとても大切な行事です。 さまざまな風習があり、今も受け継がれています。